雅也です。

「どうしたら、愛してくれる人と一緒になれますか」
というご相談を頂くことがあります。

生きていて、愛されていると実感できることは非常に少ないでしょう。

しかし、いつも愛されていると感じて生きている人もいます。

まずは自分か、他者か

人を愛するというのは無条件です。
「こんなに愛しているのに何もしてくれない」というのは条件がついています。

スポンサードリンク

愛というのは、相手が感謝をしてくれなくても続けることです。

愛されている人というのはそれが自然にできています。

愛される人になるには2つの道があります。

まずは自分を満たす。という道と、他人を愛していくという道です。

与えられる前に与えましょう。というのが愛の概念であり、
聖書などにも書かれていることです。

愛されたいなら、まずはそのように他者を愛して行きなさい。ということですね。
しかし、人間というのは不完全で、すぐに他者を愛することはできません。

それができているならば、愛されているはずなのです。

人を愛するということには、まず心の余裕がなければなりません。

何か災害が起こったとき、同じ状況でも支援する側になる人と、支援される側になる人がいます。
どちらがいい、ということではなく、支援できる人というのは何かで心が満たされている状態です。

例えば、家族のことを任せられる人がいるから、自分がみんなを支援する。
自分はたいした被害ではなかったからもっと大変な人を支援する。
このように、目に見えない部分で何か満たされているから分け与えられるわけです。

ということは、人を愛するためには、まず自分を愛さなければなりません。
しかし、自分を愛するために「誰かに愛してもらわなければ」と思っていては前に進みませんし、
自己愛が強すぎるのもいいことではありません。

とはいえ、愛を与えなければ愛されないとすれば、まず自分を満たすことです。

それは、金銭的、物質的なこと、名誉、給料、様々あるでしょう。
実際はそういうことではありません。

愛される人は相手の喜ぶことが好き

愛される人というのは、相手を喜ばせることが大好きなのです。
なので、自分が愛を与えているという感覚すらありません。

相手を喜ばせるといっても、プレゼントやサプライズのような、
「ほら、うれしいでしょ」という押しつけの愛情ではないのです。

愛される人は、小さなことをしているのです。

相手が使いやすいようにものを元に戻す。
相手が寝ている間は静かに自分のことをする。
相手に言いがかりをつけない。
相手の話を聞く。

そんな小さなことを毎日しているのです。

なぜなら、自分がそうすることで、相手が気持ちよく過ごせるからです。
相手が気持ちよく過ごせば、笑顔が見れるからです。

そして、何より愛される人は
「私が掃除しておいたの」
「私はあなたが寝ている間静かにしていたの」
「僕がいつも我慢しているんだ」
「僕がいつも話を聞いてあげているんだ」と言わないことです。

こういうことを書くと「我慢した方がいいんですか」と言われます。
我慢している時点で愛ではありません。

愛される人は、そうしたいからしているのであって、
自分を抑えたり、愛されたいから無理にしているのではないのです。
相手が喜ぶ姿を見たいからしているのです。

我慢しなければならないということは、自分が満たされていないのです。

まずは、自分を満たすことで怒ることが減るならば、
それも愛を与えているといえるのです。

私は、まず自分を満たした方がいいと思います。
誰かからの愛を求めるより、自分で完結するようにしましょう。

誰かの愛を求めている限り、幸せになることはできません。

まずは、自分を愛していきましょう。

できない部分も自分。
できる部分も自分。

完璧な人間などいないのです。
自分が満たされることは何ですか?

雅也 拝